「玉璽は、本当は壊してしまったほうがいいんじゃないかと思う。」

呉を出発する早朝のことだった。
宮殿の、門の上で諸葛瑾と交わした会話を思い出す。

「どうして、それをあたしに言うんだい?」
朝靄にけむる都を見ながら、諸葛瑾は聞いた。
髪に隠されているから、表情はわからない。
「他の六駿に言ったら、多分怒るか困惑するか黙るかでしょう?諸葛瑾なら冷静に聞いてくれそうだったから。」
私も、同じように都を眺めた。
ここから見える道を、もうじき陸遜と凌統が通るはず。
私はそれにこっそりついて行って蜀に潜入するつもりだった。

「・・・お陸とおチビにくっついていくのはそれが目的かい?」
「すぐ、どうこうしようってワケじゃないよ?まずは孔明殿と一度お話ししてみたいから。」
「孔明は・・・いや、なら見かけによらずしっかりしてるから大丈夫だね。・・・気をつけて行っておいで。」
「見かけによらず、は余計です。じゃ、行ってきます。」
こちらに向き直った諸葛瑾は、笑って送りだしてくれた。
多分、諸葛瑾は、聡い人だからいろいろ気づいているんじゃないかと思う。
私が、違う世界の国から来たこと、歴史の流れについて知っていること。

玉璽は、本当は壊してしまったほうがいいんじゃないだろうか。
そう思うようになったのは、少し前のこと。
夢を、見るようになった。
玉璽に触れた、あの日からだ。
私は荒涼とした大地にたった一人で立っている。
足下には、元はさぞ美しかったであろう、都の瓦礫と化した姿。
誰も、いない。
胸がどきどきして耳が痛くなるほどの無音の世界に私は、一人。
最初は、歴史を知っている意識が見せる夢だと思っていた。
でも、見るごとに鮮明になる夢。
瓦礫と思ったのは、呉の宮城の残骸だった。
そして、ふと自分の身体を見ると、服は誰のものともわからぬ血でべっとりと汚れ、そこから伸びた自分の手を見遣るとそれは透けていた。
何も、掴むことができない手。
夢の中の私は絶望の呻きをもらし、そこで目が覚めるのだ。
・・・歴史を、運命なんて言葉は嫌いだけど流れを変えることは可能だろうか?
少なくとも、もう私の知っている人たちがいなくなってしまうことのないように出来ないだろうか?

そう、考えて今私はここにいる。


「そなたは恐れに屈しはしません。そう、育てました。」
「我が師よ、貴方は意地悪だ!一体私に何をしろと。」
漏れ聞こえてくるのは、陸遜と孔明の会話。
孔明の言葉に陸遜が、次第に感情を昂らせていく。

「我が手でこの世を統べるまで。」
「それでは戦を始めるとおっしゃるのですか!」
・・・戦は、もう始まっているよ、陸遜。
それはあなた自身も知っていることだよ。

「そして私は玉璽を使うにふさわしき者。」
「信じられない!」
言葉通りにとってはダメだよ、陸遜。
玉璽がどこにあるか、目の前の相手が煌星をしているかどうか。
見定めることもせずに。

「そなたはどうしますか?その力、私に貸しますか?」
「嘘だ!孔明様は嘘をおっしゃってる!誰よりも民を愛した貴方が!」
黙って、聞いているのもつらくなるくらい、陸遜の口調は悲愴なものに変わっていった。

「気が変わったのです。そんな私を斬りますか?」
「意地悪なんかじゃない。貴方はひどい。」
そうして、陸遜は立ち上がって、孔明の側を黙って通り、庵から立ち去った。

あまりにも、相手を慕い過ぎてその言葉の持つ表面通りの意味しかとれなくなっている。
・・・まあ、恋や愛情、そういったものにはよくあることだけれど。
後で、ちゃんと陸遜に孔明の言葉の裏に何かある、って説いてあげたほうがよさそうだ。
思わず、ため息をついた。

「陸遜、そなたはまだ知るべきことがある。・・・そこの方、出ていらしたらどうですか?」
「やっぱりお気付きでしたか。おひさしぶりです、孔明殿。」

誰に聞かせるつもりで言った言葉なのかと思ったが。
なるほど、陸遜に言った言葉は本心ではなかったのか。
隠れている必要もなくなったので、木立の間から私は出て、孔明に拱手した。
一応、形だけは。
立場上、”様”をつけてはもう呼べない。
そう、言外にこめた意味がわかったのか。
ふわり、と微笑んで孔明は頷いた。

「おひさしぶりですね。、とお呼びしてよいですか?煌星を果たしたそうですね。」
「どこからそれを?」
陸遜が話すはずはない。
それに、孔明が呉に滞在していた間、私はまだ煌星していなかった。

「周瑜殿が亡くなられて城に帰還されたときに煌星の光が立ち上ったと、聞いています。」

なるほどね。
呉の国の中にいるからって安全ではないし、情報は常にこちらに渡っていた、ということだ。

「確かにその噂は正しいですが、私自身煌星の力を用いて戦ったことはありません。」

孔明の双眸がわずかに見開く。

あれ以来、煌星の力を解き放ったことはない。
そう、あの感覚は今でも思い出す。
私のいた世界でも、神経伝達物質を調節する薬物は病気の治療用として用いられていたけれど、あの光が全身を駆け巡る感覚は独特だった。
思わず、自分の二の腕を掴んで、おそってきた震えに耐えた。


「その力、使ってみたいと思ったことはないのですか?」

情報を与えてはいけない。
自分の望みも、弱さも。
何故なら、この男は、心の間隙に入り込む。
陸遜を、そして他にも孔明に心を奪われた人たちを見て来たことでわかったことだ。

「ありません。玉璽のことも含めてあなたにお話したいことがあって参りました。」
「以前、七星壇で周瑜殿が数度私を斬ろうとしたときに牽制をしてくださいましたね。私もそのときから一度、ゆっくり貴女とお話してみたいと思っていました。」

どうぞ、と椅子を勧めながら孔明は言った。
失礼いたします、と椅子に座りながら思いを馳せる。
そう、確かにそんなこともあった。
あの時、赤壁丸に陸遜を向かわせたのは、もし周瑜様が孔明を殺害しようとした場合、私がそれを止めると踏んでいたのもあるだろう。

「勘違いしないでいただきたい。あの時はまだ、孔明殿がいなくなられるべきではないと判断しただけです。」
歴史の上では、赤壁の戦いで孔明は死んだりしない。
それもあるけど、危険分子だからと言う理由だけで、呉に手助けをしてくれる人間を斬るという周瑜様の考えに反発しただけだ。
ましてや、陸遜が敬愛してやまない師匠だ。
そんなことになって悲しむ陸遜の顔を見たくなかった。
でも、今なら周瑜様が考えていたことが正しかったと思う。
そう、答えても孔明は、テーブル越しに、静かに微笑んでいるだけだった。

さわさわ、と。
聞こえるのは、木々の葉の擦れる音ばかり。
その中に、微かに聞こえる悲鳴のような声。
あれは、きっと陸遜の慟哭の声だろう。
可哀想な陸遜。
孔明の言葉を真に受けて、今頃は嘆き悲しんでいるのだろう。

こうして黙っていても、埒があかない。
まずは、どれだけ私のことを相手が知っているか、確認しようと思った。

「陸遜からどれだけ私のことを聞いていらしゃいますか?」
のこと、ですか?遠い異国から来たこと、陸遜たちが仕官する数カ月前から周瑜殿の下で仕えていらした、ということぐらいです。」
女性であることは、滞在中の一件でわかりましたが。
と続ける孔明の言葉に、それは出来れば忘れていただきたい一件です、と答える。
今から思い出してもあれは、顔から火が出そうだ。・・・単に酔ってその場にいた全員に絡んだだけとはいえ。
でも、その時はまだ周瑜様もいた。
懐かしい、と思ったそれは私の表情に出てしまったのだろう。
しまったと思ったがもう遅い。
この人間と対峙するときの心構えを忘れていた。

「帰りたい、とは思いませんか?周瑜殿にはどこまでお話に?」

やはり、ね。
私の心がゆれるキーワードを出してくる。
弱い部分を確実に突いてくる。

この世界に来たときは本当に戸惑った。
別に前にいた場所が嫌だったわけじゃない。
普通に学校を卒業して普通に仕事をしていた。
家族だっていたし。
思春期の子供のようにどこか別の場所に行ってみたいとか、自分には何か生まれもった使命があるなんて考えた時代なんてとっくに卒業していた。
平穏にそこそこの生活を送って、そして生涯を終えるのだろうと漠然と思っていた。
帰りたいか、と言われればそれは帰りたい。
でも、この世界で出来た知り合いと別れるのもまた辛いこともわかっている。

そして。
周瑜。
もう、すっかり”様”をつけて呼ぶことが当たり前になってしまった。
それくらいの間は側にいた。
外から見れば、冷静・冷徹な呉の軍師。
それでいて白熱した犠牲の炎を心の中で国のためにいつも燃やしているような人だった。
いつも心にあったのは君主でもあり友であった方との約束だった。
だけど決してそればかりにとらわれていたわけではない。
そうでなければ、あれほど部下にも呉の人々にも慕われるはずはない。
下で働いていた私にもなにくれと気にかけてくれていた。
・・・時々、私が女だということを忘れていたようだけれども。
ただ、数度だけお互い心に触れるものがあっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。

「私は、この煌星の力をありがたいものとは考えられません。それと、周瑜様にも異国から来たということしか話していません。・・・話してもどうにもならないことはありますから。」
この戦いが早く終結してほしいと願うけれど、もし私の世界と歴史が同じなら、この広大な大地は今後千年以上にわたって戦いの歴史の中にある。
そんな中に、得体のしれない力があったらどうなるか。

「玉璽は、この世界にないほうがよいのかもしれません。これから後も、この大地は動乱が続くでしょう。」
歴史を知っているということは、私にとっては切り札となるはずだった。
孔明ほど賢い人間なら私の言葉の意味はわかるはず。
そう思っての言葉だった。

座っていた孔明が立ち上がり、テーブルを廻って私の側まで歩いて来た。

何時の間に用意したのだろう、その掌には淡い紫色に輝く、外側を殻のようなもので覆われた球体を載せていた。

「疑似玉璽です。・・・、貴女の目的の一つは周瑜殿に私がお渡ししたこの疑似玉璽をその目で確かめること。違いますか?」
ゆっくりと、私に向かって歩み寄りながら、その薄い唇から紡がれる言葉たち。

「玉璽を壊したいと言うのならば、この疑似玉璽を、貴女はどうしますか?」

疑似玉璽。
そう、玉璽を追う以上、それは避けて通れないものだった。
玉璽と同じように、望む者に煌星と同じ力を与えるという。
それは、力を得たいと願った者に与えられる。
ただし、それは不完全なもので負の面を引き出す、とも聞いている。
・・・それなら、逆に力を注いでみたらどうなる?
玉璽が完全なものだとしたら、その力で不完全なものを修正することは出来ないか?
正の力と負の力。
プラスとマイナス。
いや、二つをぶつけたら中和できないのだろうか?

関羽の、疑似玉璽の力に蝕まれながらも愛する者を守ろうとする哀しい姿が脳裏に浮かんだ。
周瑜様。
あなたは、たった一人でこの光を見て何を思ったのだろう。
もし、甘寧の言う通りに私達のそばで見守ってくださっているのなら、力をお貸しください。
疑似玉璽同士が、繋がっているのなら、
どうか、あの純粋なる願いに救いを。
私の玉璽から得た力を注ぐから。
どうか、光を。
玉璽などなくても、人は、この世界は、生きていける。

立ち上がり、玉璽に手を翳した。
パキィィィン・・・!
と、何かが弾けるような音がして。
触れると、疑似玉璽は砂のように細かな粒子となって風に飛散した。

「なるほど、そのような力の使い方もあるのですね。」

途端、くらり、と目眩がした。
力を吸われた気分だ。
テーブルに手をついて、目眩をやりすごす。

「貴女も、玉璽を見定める目となってはくれませんか。」

目眩がおさまらない中、孔明の言葉が耳に、頭に響く。

「お断りします。」
即答してやった。
私まで、あなたの手口で引き込めると思ったら大間違いだ。

「知りたいとは思わないのですか?世界の果てを、貴女のいた場所へ帰る方法を。」

どうせまた、薄ら笑いを浮かべているのだろう、と見た顔は、それとは逆に真剣味を帯びた表情をしていた。
孔明の白い手が私にむかってのびてくる。
そのまま、手をとって引き寄せられ、腰に腕をまわされる。
優雅な動作とそぐわない、意外な力強さだった。
こうしてみると、やはり鍛えていても私とは違った男の身体だ。
当たり前だが、衣類ごしとはいえ、触れた身体はあたたかかった。

対照的に孔明の白い指はひんやりとしていた。
その長い指が、私の頬をたどり、そのまま私の首筋の頚動脈付近に触れてくる。
近々と、見つめるふたつの瞳は、淡い翡翠色。
微かに甘い香りが鼻をかすめる。

出来過ぎだろう、と思った。
確かにこの美しさと底知れなさに魅入られてしまう人間もいるだろう。けれど。
完全な人間なんていないことを私は知っている。
優しくて、強いなんて、そんなのは神だけだ。
恐れを持てば、屈することになる。
知らないということは恐れへと繋がる。
もし私が、何もしらない10代の少女だったとしたら屈していただろう。
けれど、私は何も知らないわけじゃない。
生きてきた分だけ、強くなった。そう思いたい。
だから、ただ、静かにそのふたつの瞳を見返した。


「残念ながら、私は力にも、真綿で首をしめるようなやさしさにも屈しない。私を動かす理由は私だけが決められる。」
たとえ、ここで力づくでされたとしても。

「やはり貴女と陸遜はよく似ています。ただ、のほうが動じない。」
陸遜より精神が成熟しているからでしょうか、と、どこか面白そうに言う孔明が無性にカンにさわる。
だけど、先ほどの飲まれてしまいそうな空気は消えていた。

「それはどうも。人は年齢と共に経験も積みます。そしてそれは無駄ではありませんから。」
この手を離していただけますか?
そう言うと、あっけなく、手は離された。
すでに目眩は去って、私はちゃんと自分の両足で立つことができた。

陸遜とのやりとりを聞いていてわかったことがある。
突き放すような物の言い方をしていたが、孔明は陸遜を手放す気はないのだ。

陸遜にとって孔明は、師匠であると同時に父親でもあり、母親でもあり、そして多分恋人でもある。
肉体関係があるかどうかが問題じゃない、心がそう、深く結びついているのが傍目からもわかる。
幼い頃に肉親を失ったという陸遜は、ずっと孔明を師匠として、唯一無二の存在として愛してきたのだろう
そうでなければきっと生きてこれなかったのだろう。
そして、今の陸遜を育んだのもこの孔明だ。
陸遜を愛していないわけではないだろうが、その感情はきっと通常の人間がもつものとは多少異なっているような気がした。

「玉璽はここにはありません。城にあります。」
未だ、ほんの一歩踏み出せば届く距離に立った孔明が言った。

「やはり、そうでしたか。」
何となく、気配を感じないからわかっていました、と言うと孔明は頷いた。

「その目で、陸遜の代りに確かめようというのでしょう?明日、私は登城いたしますが、貴女はどうしますか?よろしければ城を御案内いたしますが。」
「御一緒してもよろしいのですか?」
「ええ。勿論です。我が君ものことは気に入っていらっしゃったようですからお喜びになることでしょう。」

もちろん、行けばただでは帰れそうにないことはわかっている。
あの、天真爛漫というか天然の君主につかまったら更にその難易度は増すことだろう。
それでも、私は確かめたい。

「ではお言葉に甘えてそうさせていただきます。」
「夜ももう遅いことですし、今宵はここに泊まっていかれたらいかがですか?今、準備をいたしましょう。」
「お気づかいは無用です。ここで結構です、軒先さえ貸していただければ。」

先ほどのお返しとばかりに、思いっきり顔をしかめて答えると、孔明は苦笑した。

「どうぞお好きに。それから、先程の話ですが考えておいていただけますか?」
「?」
「玉璽を見定める・・・私に手を貸してくださるかについてです。」
「そのお話ならお断りしたはず・・・」
「その代りに陸遜たちの国境までの安全は保証いたします。」
「何を・・・陸遜はあなたの愛弟子ではないのですか?」
何、言い出すんだ。信じられない。

「道は、先程分かたれました。どうしますか?決定権は貴女にあります。」
「・・・つくづく、人の心につけこむ策を考えられるのがお上手ですね。」

思いっきりの嫌味を込めた台詞に。
孔明が薄く微笑んで草庵の奥へ歩み去っていくのを見送って、私も炎列鎧を抱えて壁にもたれるように座った。

目に映るのは、木々ばかり。
緑が、濃い土地だ。
もう、夏だ。
私がこの世界に来てからもう1年以上が巡った。
長かったようで、早かった年月。
見上げれば、天頂に一際輝く白い星と紅い星。

これから、どうするのか。
まずは明日、玉璽を再びこの目で見てから考えよう。
私に出来る、これ以上命を目の前から失わないための手段を。
そう、決めて。
目を閉じて、一時の眠りに落ちた。







>


Music by 遠 来 未 来 〜えんらいみらい〜曲名「夜明けの月-OC Mix-」