『春のかたみ』



「触れても、いいか?」

そう言った甘寧の眼は、これまで見たことのない感情を帯びていた。

「お?おお。別にかまわないぜ。」
なぜか、どぎまぎとしながら凌統は頷いた。

時刻は、夕暮れ。
場所は、望楼の上。
周瑜の葬儀以来。
時々、二人で夕暮れ時に呉の都を眺めることが多くなった。
”風に流す”、と言った甘寧の言葉の通り、こうして、高い場所で風に吹かれていると。
何かが、ゆるゆると、ほどけていくような感覚を凌統も感じていた。
大抵は互いに何も語らず日が沈むまで、二人並んで座り夕陽に照らされた呉の都を眺める。

その日違ったのは隣に座った甘寧が、触れてもいいか、と問いかけてきたこと。

甘寧の、弓を操る長い指、大きな掌。
それが、凌統の頬を包む。
頬に触れたそれのあたたかさを感じ、同時にどこかくすぐったさを感じていると。
次第に顔が近付いてきて・・・。

凌統の大きな瞳がさらに、零れおちんばかりに見開かれた。
目の前には、甘寧の瞳を閉じた端正な顔。
唇に感じるのは、あたたかさとやわらかさ。
僅かに開いた唇の隙間から、さらに熱くてやわらかなものが歯列を割って入ってこようとするのに、凌統はようやく状況が把握できた。

「・・・っ!な、何しやがる!」

どんっ、と甘寧を突き飛ばし。
思わず、凌統は口をおさえて立ち上がった。

「触れていいと言ったので口づけたのだが・・・。」
「触れるっつったら普通顔とか手とか!・・いきなり、く、口づけって、し、舌まで入れて・・・普通しねぇだろ!」

信じらんねえ!
顔を真っ赤にして、口元をごしごしと拭いながら凌統が怒鳴る。
その仕種を見て、甘寧はどこか傷付いたような顔をした。

「そうか、嫌だったか。すまないことをした。赦してくれ。」

逆に、凌統はそれを見て慌てた。
いや、問題なのはそこじゃなくて。
嫌か、と言われたらそれは・・・そうでなくて、急だったのが腹が立つだけで、もっと別な・・・。
とにかく混乱していたが、その誤解だけは解かなくてはと思った。

「嫌・・・ってんなんじゃなくて・・・その・・・初めてだったし、いきなりでびっくりしたっていうか」
「・・・」
「ああ!もう!嫌じゃねえよ!」
「本当か?」

おずおずと、こちらを見上げてくる甘寧の顔に、凌統はため息をついた。
どうして、この男は戦場ではあんなに冷静で堂々としているのに、こんな、自分相手にちょっとしたことで一喜一憂してるんだ。
・・・だけど、そんなところも嫌じゃない。
・・・むしろ・・・。

「んなこと言わすな!バカ!」
「すまん。」
「だから!謝らなくていいって・・・とりあえず、やり直しだ。」

甘寧の横に、すとん、と腰を下ろして、ほら、と促す。

「?」
「さっきは、びっくりして、よくわかんなかったから、もう一度だ。」

ほら、と妙に男らしい物言いに甘寧は、壊れ物に触れるかのように、再び凌統の頬に触れる。
切れ長の眼が、細められて、ひどく愛おしそうに自分を見ているのに、凌統は妙な居心地の悪さを感じる一方で、どこかが満たされる思いを感じた。
(ああ、そうか、俺は・・・)
甘寧の首筋に手をまわして、ぎこちなく引き寄せて。
自分から口づけた。

自分を支えるように、身体にまわされた甘寧の腕の中にすっぽりとおさまりながら。
ただ、触れるだけの口づけをした。
瞳を閉じて感じるのは、お互いの熱と、微かな香の匂い。

夕暮れの風が、通り抜けていく。
唇を離し、まだ間近で見つめあったまま。


「お前が、好きだ。」
低く、甘く紡がれる甘寧の声。
それに頬に上る熱さを感じながら。

「普通順番逆だろうが。・・・俺も。」
「凌統。」

たった今、お互いに踏み出して得た、どこかこそばゆくて満たされた想いを胸に。
今度は、もう少し、長くて深い口づけをした。

・・・それは、春の夕まぐれ。