『それは知らない』



灼けた褐色の肌が、目の前に視野がぶれるほど近くにあるのを認めて、凌統はゆっくりと瞬いた。
少しの間、意識を飛ばしていたらしい。

その間に身体はすっかり拭き清められていた。
それを行ったのと意識を飛ばす原因を作った同じ男は、片腕を凌統の首の下に腕枕として通して片腕ではしっかり凌統を抱き込んで、静かな寝息をたてている。

普段は、凌統に触れることに時々躊躇う素振りを見せるのに。
こういうことだけ妙に物慣れていて大胆なのが、凌統には少し口惜しい。
自分など、まだこういったことに慣れなくて翻弄されて、後で思い出しては赤面するということを繰り返しているのに。


最初に、肌を合わせたのはいつだっただろう。
いろいろなことが重なってその中でお互い寄り添うように温もりを求めたのが最初だったとは思う。
それほど昔のことではないのに、当時のことはひどく曖昧な記憶だった。
それでもまだ、行為自体は両の手の指で数えるには追い付かない回数であることは確かだ。


それが、ひどく罪深いことであるかのように、おずおずと自分の気持ちを伝えてきた男に。
身体ごとぶつかるように抱きついて。
真赤に染まった己の頬を隠すようにして気持ちを伝えた時のことは、逆に今も鮮明に覚えている。
その時、そっと自分の背に廻って引き寄せられて必然的に頬を押し当てることになった、逞しい腕と胸の感触は、ずっと記憶していて。
そして、それが情事の後、決まって自分を抱き寄せて眠りにつく動作にそのことを思い出して未だに、胸の鼓動が速くなってしまうのは、もはや条件反射だとしか考えられない。

二人の上には薄い上掛けがかかっている。
それでも、夜更けの空気を少し肌寒く思って、凌統は甘寧の浅黒く灼けて筋肉の張りつめた腕に頬を押し当てた。
規則正しく、上下する胸。
静かに伝わってくる鼓動。
しん、と静かな深夜、まるで世界に二人きりであるかのように思えて。
こんなに近くにいるのに、もっと傍にいたい、守りたい、離れたくない、そう思う気持ちを凌統はこれまで知らなかった。


窓から、金木犀の香りが微かに風に乗って流れ込む。
金木犀が咲いたら、秋はあっと言う間に深まる。
最期まで自分を案じてくれた父を亡くしたあの季節が巡ってくる。
出会いと別れを同時に経験した日が巡って過ぎれば。
秋が深まり、柿の実が色づいて。
そして、冬が来て春が来る。
季節は巡り、時は過ぎていく。

甘寧と出会ってから、一年。
一年前には想像だにしなかった、かつて敵だった男の腕の中で。
つらつらと、これまでの来し方、行く末を思う。
そして、変わっていく自分と周囲を思う。

ふと気がつくと。
凌統にはしっかり上掛けがかかっているのに甘寧の肩は半ばはみ出している。
それを見てざわめく胸中を言葉で表現するとしたら・・・多分、これが愛しいという感情。

(不器用な、奴・・・)
甘寧を起こさないようにと、そっと身じろぎして、上掛けを引き上げてやろうとすると。

「眠れないのか?」

静かな、それでいて深く耳に心地よい声が響いた。

「いや・・・お前の肩が冷えると思って。起しちまったか。」
「かまわん。これくらい何でもない。」
「そんなこと言うなよな。風邪でもひかれちゃ、困るのはこっちなんだからよ。」
「お前は、優しいのだな。」

全てを見透かしたような、余裕の笑顔に何だか腹が立つ。
何か、言い返そうと顔をあげると。
額に、唇を押し当てられて。
たった、それだけのことなのに。
ぴたり、と自分の言葉も身体も停止してしまう。


「もう、休め・・・」
柔らかな笑顔。
普段の甘寧が絶対に誰にも見せない表情。
それだけで、すべてを察して満ち足りてしまう自分がいる。
「・・・なん、だよ。甘寧のくせに・・・お・・やす・・み」
それと同時に、急速に身体がしびれたようになって意識が少しずつ沈んでいく。
ここに来る前に炊きしめた香の残り香か、甘寧の髪からも同じ金木犀の香りがした。

「ああ。おやすみ、凌統・・・」
再び、上掛けを引き上げて甘寧もまた、凌統を抱きしめて瞳を閉じる。

だから、凌統は知らない。
ほんの少し先の時間、少しばかり開いた身長差。
そういったものに紛れて見えないだけで。
躊躇いなく気持ちを言葉や行動にする凌統に。
甘寧が凌統に負けず劣らず、頬を染めてどぎまぎとした表情を浮かべていることを。

まだ、知らない。