『ファーストキス』



あたたかい、甘さを含んだ風が、髪を揺らす。
誘われるように見上げれば、薄紅の花びらがひとつふたつ、舞い落ちる。

自然、緩む口元をとめられないまま、陸遜の歩みは少しだけ速くなる。
もうすぐ、会える。
久しぶりに、会える。



待ち合わせた、一際樹齢を重ねた桜の巨木の元。
ダークスーツにオフホワイトのスプリングコート、緩く結んだだけの長い黒髪。
見覚えのある後ろ姿を見つけ、陸遜は駆け寄った。


「お待たせしましたっ・・・孔明さ、・・・え?」
「やあ、しばらくぶり、陸遜ちゃん」

くるり、と振り向いたのは待ち合わせた人物ではなく、陸遜は中途半端に踏み出した姿勢のまま、固まった。


「どうして瑾がここに・・・?」
「ああ、孔明の代理でね。・・・ちょっとごめんよ。」

陸遜を軽く手で制し、片手に持っていた、鳴動しかけていたスマートフォンのタッチパネルを軽くなぞる。
細く器用そうな指が、滑るように表面をなぞり、沈黙した携帯をそのままスーツの胸ポケットにしまう。

ああ、確か最近出た、某社の最新の機種だったなあ、と陸遜はそれを手持無沙汰に見やる。
それはともかく、待ち合わせしたのは孔明様とだったのに、どうして瑾がいるのだろう。
そう思った訝しさは、そのまま顔に出てしまっていたらしい。

「ごめんね?」

諸葛瑾は、にこり、と陸遜に微笑みかけた。

「・・・いや。大丈夫なのかい?」

ん?と首を傾げる諸葛瑾に。
電話がかかってきたのを切ったように見えたけれど、と陸遜が続けると。


「大丈夫。それよりびっくりさせちまったね。」
「孔明様かと思った・・・」

至極、何でもないことのように答える諸葛瑾に、陸遜は小さな声で答えた。
どうして、待ち合わせた孔明様ではなくてお前がいる?と言わんばかりの視線と口調に、諸葛瑾は苦笑した。

「それに、その格好なんかも孔明様みたいだったし。」
「ああ。これね。ちょっとした悪戯心だったんだけど・・・お気に召さなかったかい?」

軽く手を広げ、自分の姿を一瞥する諸葛瑾に。
絶対、わざとだろう、と陸遜は少しだけ赤くなって口ごもる。
ダークスーツにシャンブレーのグレー基調のシャツは諸葛瑾が着ていたのを見たことがあったけれど。
それに合わせたオフホワイトのスプリングコートとゆったり結んだだけの長い髪は、あきらかに弟である孔明が好んでしていた格好だったから。
また、この兄弟は背格好もよく似ている。
後ろ姿とはいえ、すっかり騙されてしまった自分が悔しい。
そう言わんばかりの態度で、陸遜は問いかけた。

「孔明様は?」

今日はせっかく待ち合わせて桜を見ながら散策しよう、ってお約束したのに。
そう続けながら、待ち合わせ場所に選んだ、桜の巨木を見上げる。
もう直に散ってしまう、だからその前に二人で見たかった。
すこし俯いた陸遜の姿から言外に滲み出る思いが感じられて。

ぽん、と頭に陸遜の諸葛瑾の手が乗せられ、宥めるように数度撫でて離れる。


「孔明なら、うちの社のシステムの緊急メンテナンス中。OSもハードもソフトも、アプリも解ってて指示できるのがあいつしかいないんでね。だから、その間は暇なあたしが代理で来た、ってわけ。陸遜ちゃんを一人待たせないためにね。」

経営者自らが暇、というのはいかがなものだろうと陸遜は思ったが。
共同経営者でもあり、システム系すべてを取り仕切っている孔明が忙しいのは、十分承知していた。
ここ最近も忙しそうだった。
だから、久しぶりに一緒に出かけられると思って喜んだのに。


「僕に知らせてくれればよかったのに・・・」
「お陸が楽しみにしてたみたいだからね。それに今日しかなかったんだろう?」
「え?」

桜が、と言って諸葛瑾も、一瞬、頭上の満開の花を見やった。
夕暮れ時の柔らかな光に染まっていく桜。
またこの季節が廻って来た。
酷く感慨深いものがあった。
だからこそ・・・


「そんな、がっかりした顔しなさんな。緊急っていっても、一・二時間で完了させる、っていってたから夜には孔明も来るよ。」
「本当?」

弾かれたように上げられた、陸遜の顔がぱあっと明るくなる、その素直すぎる態度に諸葛瑾が可笑しそうに口元を笑ませる。


「今まで、孔明がお陸との約束を破ったことがあったかい?」
「・・・ない。」
「そうだろう?だから、それまで、あたしで我慢してくれるかい?」

「あ、でも、我慢だなんてそんな瑾に対して失礼なことは思ってないよ。」

急にすまなさそうな顔になる陸遜に、諸葛瑾は苦笑した。
まったく、素直に心の裡をうつしてくるくると表情の変わる子だから面白い。
自分と知り合ったのはここ二年ほどだが、自分でさえも可愛いと思うのだから、幼い時から見ている孔明にとってはより一層可愛くて仕方ないだろう。

そんな諸葛瑾の様子には気付かず、陸遜は少し焦りながら言葉を重ねようとする。
さっきも、諸葛瑾へ架かってきていたのはきっと仕事の電話に違いない。
忙しい中、自分のためにだけ出てきてくれたのに、一瞬でも拗ねたりして。
そう思い至ると、瑾にも申し訳ないよ・・・と陸遜が続けようとしたその時。


ぎゅるるる・・・・


「あっ・・・」
「おやおや。」

なぜこんなタイミングで・・・と鳴った部分を押さえて陸遜の顔が赤らむ。


「こんなところで、立ち話もなんだし。あっちに屋台が出てたから行ってみようか。」


風に乗ってやってくる、その食欲をそそる匂いに。
陸遜は、顔を赤らめつつも素直にその提案を受け入れた。



****



「本当に、いいのかい?」
「いいんだって。今日はあたしの奢りだって、さっきも言っただろう?」

ずらっと並んだ出店で、焼きそばに始まり、りんご飴、たこ焼き、ケバブらしき串に刺さった焼き肉・・・と両手から溢れんばかりの食物を手に。
陸遜は困惑半分嬉しさ半分で問いかける。


「あのあたり座れそうだねえ。お陸は冷たいのとあったかいのどっちがいい?」
「え?」
「飲み物だよ。」
「えっと、冷たいの、かな。」


話しながらも、自販機で手早くペットボトルのお茶とコーヒーを買いつつ。
さりげなくエスコートする手に誘導されるように、陸遜は植え込みの近くの石のベンチに腰を下ろした。


「隣、失礼するよ。」
「ああ、うん。」


はらはらと、薄紅色の花びらが散る中。
陸遜は、かりかりとりんご飴を咀嚼しながら、諸葛瑾はコーヒーを飲みながらしばし二人は無言だった。

ちらり、と横を見ると、諸葛瑾が舞い散る桜を見ながら缶コーヒーを飲んでいるのが妙に様になっていて。
陸遜は少し落ち着かない気持ちになった。
孔明とはまた違っていて、何だかエスコートの様も手慣れていて。
諸葛瑾本人は気付いているのかわからないが、今だって通りがかった若い女性の二人連れが、小声でかっこいい、なんて囁き合ってた。

やっぱりいろんな女性とお付き合いしているのかなあ、とそんな他愛もないことが気になってしまう。
ふとそこまで考えて、いくらなんでも他人の自分が諸葛瑾のプライベートまで詮索するなんて失礼だ、と陸遜はそこで思考を打ち消した。


「どうかした?」
「あ・・、と、タバコ・・・はいいのかな?と思って。僕ならかまわないから。」


何か物足りないような気がしたのも事実で。
慌てて取り繕うように言った陸遜をさして不審にも思わなかったようで、諸葛瑾は目を細めて笑みを作ると、缶をベンチに置き、タバコと携帯灰皿を取り出した。


「やさしいね、陸遜ちゃんは。」


眼鏡越しに優しく細められた双眸に、何故か陸遜はどぎまぎして、慌てて視線を反らす。


「何だか顔が赤いけどどうかしたのかい?」
「な、何でもないよ!瑾も食べるかい?僕ばかりで悪いし!」


不思議そうに陸遜を見つめる諸葛瑾に陸遜は焦りながら食べかけのりんご飴を差し出そうとし。
いくらなんでもそれはないだろうと焦りながらまだ手をつけてないプラスチックの容器に入ったたこ焼きを差し出そうとして、更にはそれを危うく全部取り落としそうになった。

暫し驚いたようにそれを見ていた諸葛瑾は何か思い当ったらしく、悪戯を思いついたような笑みを浮かべた。


「あたしはいいよ。」
「でも・・・」

「そうだねえ。それなら、あたしは、こっちを味見させてもらおうかねえ?」
「瑾?」


それまで咥えていたタバコを、携帯灰皿の中にしまうと。
す、っと諸葛瑾は陸遜の頬に手を伸ばす。
そのまま、親指で陸遜の口元のあたりに触れてくる。

何を?と言おうとした言葉は、重ねられた唇の間に消えた。


「ごちそうさま。」


え?何を?人通りが少なくてもここは外だったはず?そして何か柔らかかった・・・
一瞬、陸遜はただぐるぐると廻る思考に支配され、全ての動作がフリーズした。

やっぱり甘いねえ、と笑いながら諸葛瑾が、自身の唇についた飴の欠片を指でぬぐって、ぺろり、と舌で舐めとる様を見て、ようやく我に返る。
自分のされたことに気がついた陸遜は、自分も唇を押さえると、しどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。

「・・・瑾?い、今のって・・・その・・・」

耳までが徐々に赤く染まっていく様を諸葛瑾は面白そうに見つめた。


「何って・・・キス?」
「何、でこんなこと・・・?」
「したかったから、かな?」
「そ、そう・・・」


そこまで会話して、諸葛瑾はようやく陸遜の反応に、おや?と思い始める。


「怒らないのかい?」


今更しておいて言うことではないかもしれないが、そう尋ねると。


「は、初めてだったからよくわからなくて・・・怒るって、その・・・」
「え?初めて、って・・・孔明とは?」
「孔明様とも誰とも、キ・・・こんなことしたことはない!」


新しく取り出して火を点けようとしていたタバコを諸葛瑾は危うく取り落としそうになった。
今、何と言った?まさか。
その、孔明様にはせいぜい、軽くハグされて、こちらがドキドキしたぐらいしかない、と。
そう、陸遜に返されて、今度は諸葛瑾のほうがフリーズする番だった。


「・・・意外、だったねえ。」


まさか、ファーストキスをいただいちまうとは悪いことしたかねえ。
陸遜の様子と、そしてこの事実を知った時の弟の顔を予想して諸葛瑾は非常な罪悪感に襲われた。
ただ、可愛いと思ってしただけの行為がこんな事態になるとは予想外だった。


「ごめんよ。」
「どうして謝るんだい?・・じゃあ、瑾はどういうつもりで、その、キスなんて・・・」
「どうして・・・って・・・可愛いと思ったから。」
「なら、いい。」
「え?」


烈火のごとく怒り出しても当然、と思っていただけに、陸遜の反応に諸葛瑾は目を瞠った。


「その・・・初めてで、びっくりしたけど、・・・でも嫌じゃなかったから。」
「嫌じゃない、ってそれ・・・」
「僕がいい、って言ってるんだからいいんだ!もうこの話はおしまいにしよう。」


赤い顔をしながらも、毅然として宣言する陸遜に。
一瞬呆気にとられた諸葛瑾は次の瞬間、くつくつと笑いだした。


「瑾?」
「ああ、ごめんよ。ちょっと、お礼を多く貰いすぎたかね。」
「え?何を言って・・・?」
「あたしからもお返ししないと割が合わない、ってことだよ。他に何か食べたいものはあるかい?」
「僕はそんなつもりじゃ・・・」
「いやいや。まだ孔明が来るまでには時間があるしね。何かご所望の物はないかい?」
「それじゃ・・・綿飴。」
「はい。おおせのままに。ちょっと待っててね。」


まだ、顔が赤いまま、こくり、と頷いた陸遜にひらひらと手を振って、諸葛瑾は少し離れた屋台のほうへ一人歩き出した。




「・・・高く、つきすぎたみたいだね。」


先ほどの陸遜の表情を思い出して、自分の唇を再度撫でながら呟く。


「さあて・・・と。孔明には黙っていたほうがいいかねえ・・・それとも。」

俄かに、自分の中で大きな存在になってしまったあの子をどうしよう。
これまで通り見守るか、それとも・・・。


はらはらと、桜の花が散る。
その桜と同じように、諸葛瑾の白い頬にも僅かに赤い色が上ってきたことは。
誰も知らない。