『2人の世界』



----あの時も、今も、貴方は私の目にうつるすべて。


唇が離れた後の吐息は、まだお互い熱を持って湿っていた。
「無理をさせましたか?」
「いいえ。」
行為の最中、まるで溺れる者が縋り付くように、ずっと背中に縋っていたのを訝しんだのか。
濡れて、陸遜の額に張り付いた黒髪を丁寧に指先ではらってやりながら孔明は尋ねた。
「 今日、帰ってからそなたはずっと、自分の無力さを嘆いている。何かありましたか?」
傍らに横たわり、髪を撫でながら促す。
「・・・今日、魏の兵士に焼かれた村で子供を助けました。私が、初めて貴方と御会いしたときにしていただいたように手を差し伸べたのですが・・・」
目の前で村を焼かれ、母を殺された少年は剣に怯え、逃げ去ってしまった。
「私は無力です。」
そう、呟いて閉じた陸遜の目から一筋涙が流れる。
「泣かないで、陸遜。」
「孔明様」
「そなたは忠実に私の教えを守っている。そなたが繋いだ子供の命、魏の兵士たちの命。生きてさえいれば人は強くなることも悔い改めることもできる。」
だから、無力ではない、と慰撫するように髪に額に指に落とされるくちづけ。
こんなにも、愛しんでくれる師から、自分は離れていかねばならないのだ。
それが無力さを嘆くのに拍車をかける。

「孔明様、私はまだ未熟です。このまま、お側にいさせてはいただけないのですか。」
胸に縋り、見上げてくる陸遜に、孔明は静かに首を横に振った。
陸遜の目が、また曇る。
「私の考えは既に告げました。今度は、国に仕えて、今よりもっとたくさんの人たちを助けてあげなさい。そして、私にもいろいろな話を聞かせてください。」
「また、会いに来てもよろしいのですか?」
陸遜の目が輝く。
愛しい弟子。
輝く目、師である自分を慕う真直ぐな心。
本人は無頓着だがその美しい容姿。
だから、手放せないのだ、と孔明は囁き、陸遜を抱き寄せた。
「勿論です。・・・夜明けにはまだ、間があります。今宵はもう一度・・・」
再度、陸遜の上に身を重ね、そのこめかみに唇を落とせば、陸遜は恍惚となって瞳を閉じた。

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その後、髪を櫛でやさしく梳いてくれながらも、貴方は決して、自分の側にこれからもいていいとは言ってくださらなかった。
澄んだ水面に映るのは、孔明様と僕と2人だけだった。
2人だけの、美しくて完璧な世界。
そのまま、2人だけの世界にずっと留まりたかった。
そうすれば、我が師が変わるのを止められたかもしれないのに。
「泣きな」と言った凌統の言葉に、涙が苦く頬を流れる。
こんなに苦しいのは、まだ我が師を信じて迷っているから。
孔明様。
貴方のことも教えのこともすべて一番近くにいた自分がわかっていると思っていました。
2人の道は本当に分かたれてしまったのでしょうか。
それでも、きっとこのお慕いする気持ちは変わらない。
あの日はなんて懐かしく遠く、この山頂の庵への道は何て苦痛にみちて遠い。