『嫦娥の夢』



月が、明るい夜だった。
孔明と共に歩む陸遜は足下に落ちる影が濃いのに気づき、ふと空に目を向けた。
中空にかかるのは、満ちた月。
完全なる姿と白くやわらかな光に見とれ、陸遜は立ち止まった。

「陸遜?どうかしましたか?」
「孔明様。月を見ておりました。」
「ああ。今宵は見事な月夜ですね。」

空を見上げ孔明もまた、足を止めた。
仮の宿としている庵へ向かう途中。
月は満ちて、夜風は涼しく、傍らには敬愛してやまない師。

「孔明様と月は似ていらっしゃるような気がいたします。」
あまりにも完全な世界にこの上ない幸せを感じ、少し、ぼうっとなりながら陸遜が呟いた。

「月に、ですか?」
孔明が淡い碧色の目が細め、微かに首を傾げながら問いかけると。
あまりにも、唐突な話題だったろうか、と陸遜が恥じ入りながら続ける。

「はい。どちらも優美で光り輝いて、包み込むような優しさをもって・・あ」
不意に手を引かれ、重ねられた唇。
ちりり、としびれるような感覚に陸遜は瞳を閉じた。
身体の奥から沸き上がる歓喜。
この、美しい人が自分を求めてくれる。
陸遜にとってそれは、日常とはかけ離れた、自分でなくなるような、もの狂おしさを感じる一時だった。
それを教えたのも、この師だ。

軽く重ねられただけだった唇はすぐに離された。
瞳を開けた陸遜に。
「そなたは嬉しいことを言ってくれますね。」
そう微笑んだ孔明に、陸遜はうっすらと頬を染める。
「孔明様は月もお好きなのですか?」
「ええ、月もまた星星と同じように様々な事象について人に教えてくれます。」

そう、答えて孔明は月を見上げた。
その身体は、月の光を浴びて白銀に輝き。
寄り添って立っているのに、遥か遠くの人であるかのような錯覚を起こさせる。
月には、不老不死の美女が住むという。
以前、聞いた伝承を思い出す。
どこか儚さを感じる孔明の姿に、陸遜は急に不安を覚えた。

「孔明様!」
「どうしたのですか?陸遜。」
思わず、縋り付いた腕は暖かかった。
よかった、ちゃんと、孔明様はここにいる。
そのあたたかさに陸遜は安堵した。

「あ・・・あの、お許しください。孔明様がどこかに行ってしまわれる気がして。」
ひどく、不安定になっていると自分でも陸遜は思った。
月のせいだろうか?
「月に住むという嫦娥のようにですか?」
「はい。」

『雲母の屏風 燭影 深し
長河 漸く落ち 曉星 沈む
常娥は應に悔ゆべし 靈藥を偸みしを
碧海 青天 夜夜の心』

孔明は、陸遜の手に自分の手を重ね、静かに吟じた。
その詩は嫦娥を題材とした詩であることを陸遜も知っていた。

「私はお前を置いてどこへも行ったりしません。
たとえ、伝説の仙女のように不老不死であったとしても、広大な宮殿に一人住まわされる不幸せな生涯を送りたくはありません。それよりもそなたと二人で限りある命を生きたい。そなたもそう思いませんか?」
「はい。私もそう思います、孔明様・・・」
その答えに孔明は満足そうに、そして愛しそうに笑み、陸遜の腰を抱き寄せくちづけた。

一人、不老不死で過ごしているというその女性は、後悔しなかったのだろうか。
一度は愛しいと思った者を置いていってさびしくなかったのだろうか。
自分だったら、この手を離したりしない。

人は一人では生きていけない。
そう、教えてくれた師の言葉を、陸遜は暖かな抱擁の中でかみしめていた。